中身 (2017.01.21)

 

 こんにちは、<チャーリー>です。私達長谷川ゼミ8期生は、今月の1月11日に無事卒論を提出し、卒論の執筆活動は終了しました。卒論執筆が本格化した昨年の秋から提出までの数カ月間をふりかえると、駆け抜けるような速さで過ぎていったように感じます。卒論提出日を遥か先に感じていた当時を思い出すと、どうにかこうにか卒論を提出できたことにたいして感慨深い気持ちになります。しかし今の私には、それ以上に自分の卒論の内容や取り組み方への後悔や反省のほうが圧倒的に大きく感じています。 
今回のブログでは、その後悔と反省から見えた自分の物事への取り組み方に関してのお話をします。

 

 私の卒論は、「『学校剣道』において『成長』は、どのようなものであると語られているか」ということを、雑誌『月刊剣道日本』を調査資料にして探ろうとするものでした。私は、ゼミ内の卒論提出日であったクリスマスの3日前に、なんとかすべての雑誌に目をとおすことができました。しかし、その次の段階である言説を論文に組み込むという最も肝心な部分で、私は大きくつまずいてしまいました。 
“『月刊剣道日本』から「成長」をみる”という抽象的な方向性は定まっていたものの、具体的になにをどうすればそれが可能になるのか、ということが全くみえていませんでした。なぜなら、「剣道」から「成長」を見よう、という私の「切り口」があっても、雑誌に書かれていることはあくまで「剣道」のことでしかなかったからです。そのために、そもそも「成長に関する言説」というものがどれなのかということを選別することもできず、資料の前に立ち尽くすことになりました。


 このような状態であるにもかかわらず、「『剣道』を『剣道』として捉えるのでは、ただのオタクと変わらないのではないか」という決めつけがあったので、私は雑誌『月刊剣道日本』の内容からいきなり「成長」をみようとすることをやめませんでした。見えない「成長」を捕まえようとしては、これでもできないあれでもできないと試行錯誤しました。視点や方法を変えながら、手元にある資料を何度も読み直しました。そして、「これなら『成長』が見えるかもしれない」と思えた方法をみつけては、その方法で整理したり書き進めたりしてみました。しかししばらくすると、自分が何をしているのかわからなくなって、きっとこの方法ではうまくいかないのだろうと手を離し、再度資料を読み直しました。そうこうしているうちにも時間は刻一刻と過ぎていき、その焦りからいろいろな方向から記事を見ては書き進めましたが、着眼点や論点が、時代や記事ごとにバラバラになってしまいました。それではいけない、と無理矢理ひとつの方法論を捏ね上げて、それに従って強引に書き進めることもしましたが、やはり途中で行き詰まり、最後までやり通すことができませんでした。


 本論への取り組み方を二転三転し、迷っていたこの時点では、雑誌『月刊剣道日本』から「成長」に関する言説を読み解き分析することは、私には不可能でした。それなのに、「できない」という現状を認めず「もっとも良い本論への取り組み方」を探すことに腐心し、「絶対にあきらめない」と必死になりました。それは、「適切な方法」にさえ自分が辿り着ければ、あとは道が開けるのではないか、という甘い考えによるものでした。その結果、いつまでも卒論を書き進めることはできませんでした。このままではどうやっても終わらない、ということに気づいて苦しくなったころ、ゼミ内の最終提出日を迎え、とうとう脱稿できないままの提出となってしまいました。多くのゼミ生が卒論を完成させているなか、私は完成の目処すら全く立っていない状態でした。

 

 今迄の一連の態度が間違っていたと気づいたのは、最終提出で送付されたゼミ生の卒論のなかの「反省」を読んだときでした。そこには、「もっとこうすればよかった」「これが足りなかった」というような「あと一歩」及ばなかった点を挙げるようなものだけでなく、問いや調査資料、あるいはアプローチの仕方といった、卒論の中心的な「幹」の部分にたいしての反省もあったのです。これを見て、ハッとしました。私が想像していた「反省」とは前者だけで、後者のような「幹」に対する問題を「反省点」というふうには認識していませんでした。つまり、これが大きな間違いだったのです。たとえ卒論の「幹」にかんする問題に気付いたとしても、卒論本提出まで2週間を切っている時期は、今更その問題を修正するような段階ではありませんでした。残された時間を考慮して、そのなかで自分に出来ることをして、なんとしてでも卒論を書き上げるべきでした。私はただ、「できない」という現状をどうにかひっくり返そうと躍起になっているだけで、現状でも出来ることをしようとしておらず、そのために卒論がいつまでも書けなかったのだとわかりました。


 卒論の現状を考えたら、「今の自分に、『成長』をみることはできないな」と思いました。そして、「『剣道』の指導のブームなどを見たところで、一体何の意味があるのだろう」と心のどこかで思いながらも、指導者が直接語っていることや、記事が間接的に重要なものとして語っていることをそのまま「剣道」として捉え、時期ごとに整理することにしました。すると、たとえば「練習」や「強くなること」に比重が置かれ、練習の方法や内容を盛んに語る時期もあれば、部員たちの態度やふるまいなどをどう教育するかといったことを多く語る時期もある、といった明らかな違いがありました。そしてその時期ごとに登場するキーワードや指導の方法は違いがあるものの、その先にある「部員に身につけさせようとすること」にはあまり変化がないことなどがわかってきました。今迄どうやっても見えなかったいろいろな特徴や変化が、はっきり見えてきた瞬間でした。これらの発見からは「成長」への道が開けたようにも感じましたが、それは提出の前日のことで、実際には何ひとつ間に合わせることができませんでした。
 結局、言説分析は「あの記事のあの言葉が例としてわかりやすい」といくら思っても、今から分析して書き起こす時間もなく、今迄気まぐれに書き起こした言説をかき集めて、ほんの少しの解説を加えただけでした。考察もほとんどできず、その本体以前の章には私の主観を書き並べたような部分がいくつもありましたが、諦めるほかありませんでした。大慌てで印刷して「提出」を完了させたあとに、多くの誤植や抜けなどを見つけました。形式的な「卒論提出」を達成したにすぎませんでした。

 

 必死に試行錯誤することをあきらめなければ、なにかに辿り着けるような気になっていました。「ちゃんとした卒論を書くんだ」という意志を持ち続けていれば、最終的にはある程度「ちゃんとした卒論」を仕上げることができると思っていましたが、それは大きく間違っていました。「気合充分」で事に当たれば「いい結果」につながる、という考えと根本は同じようなもので、非常に自己満足的で自分勝手な考え方でした。

 必死に目標にしがみつくような私の態度は、到達までのプロセスの一切が抜け落ちていて、肝心な「中身」が空っぽでした。「中身」とは、当たり前のひとつひとつのことを積み上げていくような、着実で誰にでもできる作業です。それをどこまでも軽視して怠っておきながら、目標に到達できるはずもありませんでした。そんな「中身」のない私の取り組みは、そのまま「空っぽな卒論」という目にみえる形になって表れました。そしてこのことは、決して「あと一歩が足りなかった」というような惜しい失敗ではありませんでした。「結果が悪い」ということは、その過程が不充分あるいは不適切であったことを示していると思いました。そして「中身」というのは、決して「頑張った」「必死になった」といった感覚的で自分基準のものではなく、これまでの自分の選択や行動といった具体的なものによって形成されるのだと思いました。

 夢見がちで足元が疎かな私の態度や行動は、今回の卒論に限らず、きっと他の多くのことにも言えるのだろうと思いました。私は「自分がなにをして、なにをしなくて、その結果なにができて、何ができなかった」という冷静な振り返りをすることが苦手で、「必死になった」「よく考えた」「何回かやり直した」などという感覚的で抽象的な回答をしがちです。さらに言うと、結果にかかわらずたいていのことは、「自分なりには頑張った」とまずまずの好評価をつけていました。
 私はよく「<チャーリー>が頑張っているのは、よくわかるよ」と、周囲の人から言われてきました。この言葉は、私の熱心そうな姿勢を評価している場合もあれば、失敗や空回りをしているとき、どうしようもない慰めの言葉として「頑張り方」の不適切さを間接的に指摘していることもありました。しかし私は、「頑張っている」ことを盲目的に「良いもの」だと信じていたので、自分の取り組み姿勢自体を「頑張っている」と表現されたことにたいしてうれしく思っていました。そして自分の取り組み方が「正しい」のであれば、「悪い結果」を「良い結果」へと変えるまでにはきっと「あと一歩の差」しかないのだろう、とどこか惜しい気持ちでいました。前者はともかくとして、少なくとも後者にかんしては、「頑張り」が「結果」となんら結びついていない状態に対して向けられたものであることから、その「頑張り」を評価しているはずがありませんでした。そんなことにも気づかず、私は自分の姿勢だけでなくおこないまでも無条件に良いものだとみなし、「いつかきっとうまくいく」と能天気に夢見ていました。自分が「結果を出すにふさわしい中身を実際に行っていなかった」ということは想像もしませんでした。

 

 今になってわかることは、「空回りばかりする」というのは、不器用だとかそういう問題なのではなくて、肝心な「中身」がないからだということです。今迄の私がしてきた失敗や空回りの大半は、目の前にあるものや自分がすべきことにたいして、等身大で着実な作業をしなかったことに起因するのだと思いました。そしてその努力をしない代わりに私がしていたことは、その積み重ねのはるか上空にしかない「結果」や「成果」を得ようと手を伸ばしてバタバタと足掻くことでした。


 と、いくら頭で思ったところで、行動として手を動かさないことには今迄と何も変わらないので、物事の大小や自分の興味関心の強弱にかかわらず「手を動かして進める」ことに尽きると思いました。


最後までお読みいただきありがとうございました。