「気合い」の魔法にかけられて (2016.10.10)

 

 こんにちは。半袖で昼寝をしたせいで、すこし風邪気味な‹チャーリー›です。

今年の秋学期の長谷川ゼミは、9月の最終週、ゼミ生の発表から始まりました。その翌週の10月の第1週目には、約3か月ぶりに通常の形式のゼミが行われました。わたしは、これをきっかけにゼミ中心の生活の感覚を思い出してきたと同時に、「後悔しない半年間にしたい」と強く思いました。そして、「今までだったら『心機一転、頑張るぞ!』と気合いをいれていた場面だな」とも思いました。

 

 

 「気合い」に関するある教訓として、わたしには今まで大切にしてきた教えがあります。それは、「同じことをやるのでも、取り組む姿勢によって、その中身が大きく異なってくる」という教えです。「やればいいんでしょ!」という気持ちでいい加減に片付けたものと、よく考えながら丁寧に取り組んだものでは、最終的な厚みや深さが全然違ってくる、という意味の言葉です。

 

 わたしは長い間、この「取り組む姿勢によってその中身が大きく異なる」という言葉に出てくる“取り組む姿勢”のことを、「一生懸命な気持ちを維持すること」だと思っていました。そしてそれが達成できるかどうかは、自分の精神的な部分に懸かっているのだとも思っていました。だから、最高のパフォーマンスを発揮するには、気持ちを高めるための「気合いを入れる」というステップが非常に大切だと考えていました。

 

 気合いが入っているときは、いつもよりも集中して物事に取り組めるように思えます。作業がうまく進んでゆくと、だんだん作業そのものが楽しくなってきて、ますます頑張ろうという気持ちが湧いてきます。そうして仕事がひとつ片付いたときには、いつも以上の達成感を味わうこともできます。気合いが入っているときは、まるで魔法にかかっているような感覚で、どこまでも頑張れそうな気がします。

 

 そんなわたしにとって、やってみる前から「できない」と結論付けることは、気合いを入れれば出来るはずのことから逃げているように見えただけでなく、成長のチャンスを自ら手放していることのようにも見えました。だから、「出来ないかもしれない」という懸念は頼みごとを断る理由とはいえないと考え、なにか人から頼まれたときには「気合い入れて頑張るから大丈夫」と後先考えずに引き受けていました。

 

 また、「頑張っても気合いが入らないようなときには、さっさと頑張ることを諦めて、何もしないほうが良い」とも思っていました。それは、肝心な気合いがない状態でだらだらと頑張ったところで大した成果は上げられない、と思い込んでいたからです。「今よりも気合いが入っているときにやったほうが、もっといいものができるから」と、怠け心を正当化して、結果的には追いつめられるまで何もしません。ギリギリまで先延ばしにして、追い込まれたところで初めて作業に取り掛かるようなことばかりです。

 

 

 「気合いを入れさえすれば、できないことはない」と自分を過信しているので、いつまで経っても自分を客観視することができません。なんでもかんでも気合いで乗り切ろうとするため、身の丈に合わないことにも平気で手を出してしまいます。その結果、いつもわたしは精神的にいっぱいいっぱいで、心の余裕なんてどこにもありません。そんなときは往々にして視野も狭くなりがちで、思い込みが先行してばかりです。そんな状態が習慣化しているために、もはや失敗や空回りはいつものことでした。

 

 わたしがよくする失敗の一例として、“寝坊”が挙げられます。遅刻が許されない日に限って寝坊をして、そのたびに「大事な日だと分かっていたのに、なんてことをしてしまったんだ」と心底後悔し、もう二度と繰り返すまいと心に誓います。ところが、失敗の原因を精神面の弱さに由来するものだと考えていたために、「前日には、寝坊しないように気を引き締めてから眠る」「駅までの道のりを、諦めずに一生懸命に走る」など、気持ちにかかわる改善策しか浮かびませんでした。「大事な日の前には、1時までに寝ておこう」「家を出る時間をあと3分早くしよう」といった具体策を考えるには至らず、気合いを入れなおして神経を張り詰めながら過ごすものの、しばらくすると再び似たような失敗を繰り返します。そして「頑張っていたはずなのに、まだ意識が足りないのか…」と落ち込んで、自分の意志の弱さを嘆いてばかりでした。

 

 

 こうした自分の弱点が明るみになったのは、今年の春学期の後半のことでした。わたしは当初、前期のひとつのプロジェクトのチーフを担当していました。気合い充分で取り組んだものの、プロジェクトの舵取りをするチーフとしての役目は果たせませんでした。それどころか、他のゼミ生は掴めている話にわたしだけ着いていけず、その差を埋めるためにはゼミ生からのたくさんのサポートを必要としました。また卒論の勉強で文献を読んでいても、その内容が「自分の経験と照らし合わせて、共感や納得ができるか否か」という判断基準しか持ち合わせていないがために、自分の関心事を学問的な観点から捉えて話すことはできませんでした。おかしいなあ、どうすればいいんだろう、と1日中悩んだところで、当然ながら「出来ない」という現状が改善されることはありませんでした。

 

 「気合いはあるのに出来ない」という情けない経験は、「気合いといった精神的なものでは、技量をカバーすることはできない」ということを教えてくれました。気合いという名の皮が剝がれ、見えてきた等身大の自分は予想以上にかっこ悪くてがっかりしましたが、「せめて、もう少しマシな人間でいたいな」とも思いました。その後の夏休み中頃まで無気力さを引きずってしまいましたが、「さすがにやらないとなあ」と、かろうじて残っていた最低レベルの動機でなんとか課題をこなし続けました。気合いのない状態で取り組む課題なんて、どんなにひどい仕上がりになってしまうのかと不安な気持ちもありましたが、いざ仕上がった課題は今までと大差なく、どれもごく普通の出来栄えでした。

 

 

 「気合いを入れようとあれこれ腐心するよりも、ただ目の前にある課題に取り掛かったほうが、圧倒的に早い」ということに、ようやく気づきました。

 

 

 さらにこのことを裏打ちするかのように、先日のゼミでは長谷川先生が「“気分”に根拠を求めるとあんまり伸びない。天気と一緒で、気分はコントロールできるものじゃないから。」とおっしゃっていました。

 

 これを聞いて、どうしてわたしは今までこんなに不安定なものを盲目的に頼っていたのだろう、と疑問に感じました。そう思って振り返ってみると、結局は気合い充分で絶好調な錯覚のなかで、あらゆることを魔法的に解決しようとしていただけでした。これは、着実な努力を避け、手っ取り早く達成感を得ようとするただの怠慢であると同時に、自分の現状と向き合わず、いつまでも本質を見ようとしない態度でもありました。

 

 

 この現状を理解して以来、「同じことをやるのでも、取り組む姿勢によって、その中身は大きく異なってくる」という言葉は、非常に耳の痛い言葉としてわたしのもとへと跳ね返ってきました。気合いに依存せず、課題の負荷に見合うだけの労力や時間を充分に割かないことには、それ以上の結果はもちろんのこと、最低限のラインに到達することさえおそらく難しいのでしょう。

 

 

 気合いや勢いに任せないで、当たり前のことを当たり前にこなせるような、地に足のついた行動をとろうと思いました。卒論は、気合いだけでは書けそうにないので。

 

 

 以上、本日の担当は‹チャーリー›でした。