いまを生きてゆく(2016.08.22)


 

こんにちは、<チャーリー>です。

 

 

今回のブログでは何についてお話しようかとずっと考えていたのですが、これといった面白いエピソードもなければ、最近なにか夢中になっているようなことも特にありません。できることならなんにもしたくなくて、ただ時間が流れてゆくのをぼーっと感じていたいと思っています。

 

 

こんなことを思うのはおそらく初めてのことです。そう思うようになったのは、小さな心境変化があったからです。

 

わたしは今まで、「一生懸命に何かに打ち込んで、努力すること」や、そうすることで「“立派な人”に近づくこと」が何よりも大事だと信じていました。それはまるで、神様から与えられた「人生のミッション」のような意味合いでした。そのミッションに向き合うストイックさを体得して初めて、日々を楽しく過ごす資格があるのだと、なんとなくですが非常に強く、思いこんでいました。そのせいで、何も考えずにただ楽しそうにはしゃいでいる人を見るたびに「やるべきことから逃げて、一体何をしているんだろう」「本当にそれでいいの?」と、呆れ半分で、どこか冷めた目で見ていました。それと同時に、最低限のやるべきことさえさらりとこなせず、失敗を繰り返してばかりの自分が、すごく嫌いでもありました。このミッションに対する意識は歳を重ねるほどに強くなって、いつのまにか、自分のことや他人のことを「あるべき姿」にくくりつけようとしながら生きていました。

 

 

大学に入ってから、「今の自分とは全然違う自分になりたい」と思うことが増えました。それは、わたしが思う「あるべき姿」に自分がなかなか近づけないからという理由がひとつと、たくさんの人と出会うなかで、いろいろな生き方や考え方があることを知ったからという理由のふたつがあります。そうしてより他の人と自分を比べて、どんどん自信が持てなくなりました。ちっぽけな自分を直視したくないわたしは、現実とはかけ離れた華々しい理想を描いては未来に思いを馳せてみたり、過去の思い出をひとつひとつ振り返ってはその余韻に浸ってみたりしてばかりいました。

 

 

そうやって現実から目を背けていたことに気づいたのは、つい最近のことです。それは、8月3日の集中講義の後で、長谷川先生のもとに集まった日でした。この日は、夏休みに長谷川先生にお会いできる最後の日で、ゼミ生が合宿の反省や卒論についての報告や相談をする機会でした。そのとき先生がお話してくださったことのなかに、「未練」とそれに対する少し厳しいご指導がありました。このときの先生のお話が、わたしにはとても強く心に引っかかって、しばらくは頭から離れませんでした。これについて考えているなかで、自分が過去のいろんなことに未練だらけだということや、過去を引きずって生きているということを自覚しました。

 

 

ちょうどそのころに、わたしが今住んでいる実家の自室を、他人に明け渡すくらいにきれいにしなくてはいけなくなりました。これを受けて、10年以上も家族以外が立ち入ったことの無いわたしの部屋を、改めて見渡してみました。人の目を気にせず好きなものを好きなように飾って散らかしつづけたこの部屋は、排他的でどうしようもなくごちゃごちゃしていて、ジャングルのような状態になっていました。あちこちで崩れかかっているノートやメモ書きの山は、「きっと今後の勉強で必要になるから」という口実で保管していたものでしたが、実際に読んでみたら内容なんてよく分からず、「あの時のわたしはこんなに頑張っていたんだなあ」と口元が緩んだだけでした。部屋のあちこちには、iTunesに取り込み済みの傷だらけのCDや、幼稚園の時に駄々をこねて無理矢理買ってもらったぬいぐるみ達や、昔気に入っていて着古した洋服や、中学校ときの学級通信など、なつかしい“宝物”がたくさんありました。でもその多くは、掃除をするときに初めてその存在に気づくような程度で、その後の置き場に悩んでしまうような、“困った宝物”でした。わたしの部屋を埋めつくしていたのは、「あのときこうだった」という過去の日常を呼び起こす、タイムカプセルのようなあれこれでした。特別にたいそうな22年間を歩んできたわけでもなければ、ものすごくかっこいい過去の栄光があるわけでもないのに、わたしは、過去のなんでもない日常の思い出のなかで、いつまでも揺られて過ごしていました。

 

 

そんな今までの生き方に気がついて、とてもがっかりしました。世界をきらきらと鮮やかに彩る魔法が、ふっと解けたみたいでした。どこか夢見がちだった自分に気づけてよかったと思うと同時に、いろんなものが急にどうでもいいもののようにも見えてきました。それからというものの頑張る気力は湧かなくなり、ほとんどなにもしないで約1週間を過ごしました。

 

 

ただ、生ぬるい夏の空気を吸い込んだり、蝉の音を聞いていたりしていました。自分だけ、時間が止まったみたいでした。

 

 

ベランダから狭い空を眺めて思ったことは、思い出とか憧れとかに強く固執する必要はないということです。「そんなことよりも、今がちゃんとしていることが大事なんだな」と、ぼんやりと思いました。

 

今現在、全然ちゃんとしていないわたしが言うのもおかしな話なので、やるべきことは最低限、ちゃんとやろうと思いました。そして、ちゃんとするためには、いま頑張るほかにないんだということも、なんとなくわかりました。

 

 

わたしの話はここまでです。ありがとうございました。