「成長する」ということ(2016.11.03)

 

 こんにちは、‹チャーリー›です。

もう11月ですね。本日まで大学では白金祭が開催されていました。学生たちの活躍の場がたくさん詰まった学祭シーズンのこの時期は、学校中がいきいきとしています。とはいえわたしは学祭とは縁遠い大学生活だったので、学祭準備に勤しむ人たちの様子を「頑張っていることはいいことだなあ」とぼんやりと眺めていました。

 

 わたしは、「ひとつの目標に向かって、みんなで頑張ること」をとてもいいことだと思っています。目標にたどりつくまでの過程にある、お互いを励ましあったり素直な気持ちを伝えあったりする経験は、人を大きく成長させることができると思うからです。

 この考えはもともと、自分の経験に由来するものでした。しかし、最近になって、「今までの自分は、本当に仲間と向き合えていたのだろうか」という疑問が浮かびました。それは、前回の‹スウィート・チリ›さんの記事にあった「思っていることを素直に言う」話し合いや、その前の‹さとうきび›さんの記事にあった長谷川先生からの“仲良しごっこ”のご指摘などがあったからです。今回は、それらを経験した今、捉えなおして見えてきた自分のことをお話しします。

 


 わたしがいちばん「みんなでがんばった」と思える経験は、高校生のときの剣道部での活動でした。わたしたちはとても仲の良い代だといわれてきました。厳しい練習はみんなで励まし合って乗り越え、試合のたびに選手の背中を押し合ってきました。部員の弱音にもちゃんと耳を傾けて、前向きな言葉を掛け合いました。おかげで腐ることなく3年間を剣道に捧げ、わたしたちはそこそこに強くなることができました。そして引退の頃には、強くなったこと以上に、そのチームワークの良さをなによりも高く評価されました。そんなチームに自分が居られたことを、わたしはとてもうれしく、誇らしく思っています。


 高校の同期は、やさしい言葉をかけるのがとても上手な人たちでした。ここぞというときに、いつもいちばん欲しい言葉をくれました。そのあたたかい言葉によって、わたしは前向きさを持ちつづけて、厳しい練習のなかにも楽しさを感じることができました。

 そんな経験を通してわたしは、「“前向きな気持ちで一生懸命になること”こそが“最良の努力のしかた”で、その先には輝かしい“成長”がある」と思うようになりました。そして「お互いが前向きな気持ちでいられるために、相手がほしい言葉などを予想して、それに即した行動をすること」が「仲間の役目」であると考えるようになりました。この考え方が出来あがったとき、「これこそ、人間関係のなかでなによりも大事なことに違いない!」と思いました。さらにこの考え方は自分の経験に由来しているがために、傲慢にもわたしは「自分が本質を体得することができた」と錯覚しました。

 

 

 そんな傲慢な勘違いとともに、わたしは「強くなりたい」「成長したい」と意気込んで、大学でも体育会剣道部を選びました。「大学の部活動でも、高校のときのようないい仲間関係を築ける」と自分をひどく過信し、「うまくいかないことがあっても、高校のときのようにすれば絶対にうまくいく」と信じて疑いませんでした。そうして自分の考え方を変えないでいたために、人間関係は八方塞がりで技術も伸び悩み、結局2年と持たずに辞めてしまいました。

 当時はわかっていませんでしたが、今ではうまくいかなかった原因を2つ挙げることができます。 ひとつは「自分の考え方」に周りを当てはめながら「聞きたい言葉」しか聞こうとしなかったこと、そしてもうひとつは、大事なことから逃げながらもそれを誤魔化し続けたことです。


 わたしのなかには、あらゆることに答えがありました。「部活とはこういうもの」「いい後輩とはこういうもの」「こう聞かれたら、こう答える」などといった自分のなかでつくられた模範解答です。わたしは、それらをもとにして「最高のチーム」づくりに貢献しようとしました。とはいえひとりでチームづくりはできないので、特に同期にたいして、わたしと同じような考え方やそれに即した行動をすべきだと思っていました。そして、わたしの期待する振る舞いをしない同期に対しては、日々小さな不満を募らせていました。わたしが信じている考え方は絶対的なものだと信じていたので、どうしてそんなに勝手な行動をとるのだろうかと、理解できない気持ちでした。そうして不信感を募らせながらも、自分の意見を口に出すことは極力避けました。意見を言うことで揉め事が起きることが予想できるので、その火種をつけるような行動は身勝手だと思ったからです。しかしそれも今思えばただの言い訳で、「自分の考えが正しいから」と同期の意見を聞く前から切り捨てて、さらには「自分の考えが正しくないこと」を知る可能性をどこまでも拒絶していただけでした。


 うまくいかないなあと思いながらも、「わたしはこんなにがんばっているのに、どうして高校のときのようにはうまくはいかないのだろう」と、どこか周りのせいにして、自分を顧みることはしませんでした。近況を高校のときの仲間に聞いてもらいながら、自分の考えを肯定してもらいました。また、状況をよく知らない学科の友人にも、都合よく同情してもらうこともしました。そして、「空回りしてばかりだけど、お前は一生懸命に頑張っているよ」と、やさしい言葉をかけてくれる先輩方とだけ関わろうとしました。そんな先輩方の役に立とうと、「チームに貢献するいい後輩」としてふるまうことにどんどん尽力していきました。そうして、見当違いなことに力を注ぐことで、聞きたくない言葉を聞かずに済むようにしていました。


 そんなことばかりしていて、苦しくなったのは自分でした。そして大学2年の冬、なんだかんだと理由をつけて部活を辞めてしまいました。


 そんなわたしの身勝手さゆえの退部にたいして、先輩方は「まわりと合わなくてかわいそうだった」「今までよく頑張った」と言ってくれました。さらに同期は、わたしを見かけると今でも親切に話しかけてくれます。そんな部員の“大人なやさしさ”には全く気づかないわたしは、「やめたら仲良くなった」とのんきに喜ぶ始末でした。

 

 

 自分の幼さに気づけていなかったのは、当人のわたしだけでした。在籍中も退部後も、なんとなく自分に問題があると思いながらも、「出来る限りのことはやったし、その結果うまくいかなかったものは仕方がない」と片づけて、それ以上には考えることはしませんでした。自分のなにがどう悪かったか、なにを変えなくちゃいけないのか、という根本的なことは一度も考えず、問題点を探そうともしませんでした。

 ところが最近になって、今までの部員の接し方が“大人なやさしさ”によるものだということを知りました。これを受けてはじめて、当時の自分以外の視点から今までの身勝手な自分の行動を振り返りました。自分が見えていたものとは全然違うものが見えてきて、はっとしました。そして、とても申し訳なくて、情けない気持ちになりました。

 

 

 「仲間を大事にしたい」と思いながら実際にわたしが取っていた行動は、自分以外の考えを拒絶して、都合のいい言葉だけを求める態度なだけでした。「一生懸命に頑張っている」つもりでいたその姿勢は、本質から目を反らして逃げながら、それを狡くも誤魔化しているだけでした。

 

 

 今までわたしは、「自分自身を変えてゆく必要がある」ということに、まったく気づけていませんでした。

だから、いざ自分が変わらなきゃいけない局面になると、まわりに否定されているように感じて、逃げ出してきました。

 本当は、この「変わること」こそが「成長すること」だったのだと、ゼミを通してようやくわかったのでした。

 

 最近の自分は、「変わること」の必要性をやっと理解できたものの、変わるための実際的な努力をなにもしていない、ということに気づいたのはつい先週の話です。「変わらなきゃ」と頭で思うようになったものの、根本的には逃げていることには変わりありませんでした。
 

 例えば、わたしは、物事の大枠や全体像を把握することが得意ではありません。しかしそれを自覚しておきながらも、改善するための努力や工夫はしていませんでした。それは「苦手」なことに託けて、全体像を見ることから「逃げ」ているだけでした。全体像が見えると、今の自分の段階や、自分が今後すべきことなどが見えてきます。そうすると、今自分が熱を注ごうとしていることが的外れであることに気づくかもしれません。そうしたら、「本筋と見誤って他の何かに取り組んでしまった」という言い訳はできません。自分がやりたいこと以外のことと向き合わざるを得なくなる状況を、出来るなら避けて通ろうとしている狡さが見えてきました。

 そんなときに頭のなかで反芻されたのは、先日の話し合いのときに‹スウィート・チリ›さんが発した「自信がどうとかじゃなくて、やるの!!」という言葉と、そのときのゼミ生たちの真剣な表情です。

 

 

 今まで「努力を必要とする局面で逃げ出しつづけてきたこと」と、「今も本質的なところは変わらず、逃げようとしていること」を知った今、言葉にしたいことは2つあります。

 

 まず、今までのわたしはゼミ生として適切な姿勢ではなかったということです。すみませんでした。
 そして、これからはどうするかということです。今のわたしが最も大事にしたいものは卒論で、最も大切したい相手はゼミ生のみんなです。今までのわたしが困っているたびに、やさしく助けてくれたゼミ生のことを、ちゃんと大切にしたいと思いました。そのためにわたしがすべきことは、自分がしっかりとした卒論を書くことと、仲間の卒論がよくなるための意見を少しでも多く出すことの2点に尽きます。卒論の仮提出日まではもう2か月もないけれど、ゼミ生としての役目を果たそうと思いました。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

 以上、‹チャーリー›でした。