卒業後の私の生活について

前記事のゼミブログアーカイブにてお話いたしましたが、私は、明治学院大学の芸術学科を卒業した後、新卒就職の替わりとして、短期のリゾートバイト等を繰りかえし、東京以外の土地で生活をしています。

 

よくわからないなりに飛び込んでみて、同じような仕事のなかでもすこしでも異なる経験ができるように、雇用条件などをもとに仕事をえらび、短いのはたったの2日、長いと2ヶ月半、現時点で5件の仕事場でお世話になっています。

 

ひとつめは岐阜県奥飛騨にある«桔梗»という個人経営の旅館で、私は派遣社員として2ヶ月弱働きました。

ふたつめは同じく岐阜県ですが、3大名湯?)で有名な下呂温泉にある、会員制リゾートホテル«みかん»というところでした。ここでの仕事たたったの2日間で、日雇い労働ような状態でした。

 

みっつめは、長野の果樹園«りんご»でのボランティア・アルバイトでした。これも約10日間の短い契約でした。

 

よっつめは、大分県九重町にある«浅葱»という温泉宿泊施設でした。

「旅館」ではなく「宿泊施設」と呼んだのは、ここの施設は様々な点において、日本のいわゆる「温泉旅館」と異なる仕組みをしているためです。

ここでも私は2ヶ月弱ほどの期間、派遣社員としてお世話になりました。

 

そして今いるところが、石川県白山市にある«胡桃»という旅館です。ここでは11月中旬まで、2ヶ月半お世話になる予定です。

 ここでは初めて、普通の期限付きアルバイトとして、旅館と直接雇用でお仕事をさせていただいています。

 

いずれ、それぞれの仕事場について、報告を兼ねた記事をあげていきたいとおもいます。

 

 

いままでとこれから (2017.03.14)

 

 こんにちは。都合により、今回は<チャーリー>が担当します。

3月も中盤に入り、いつのまにか暖かくなってきましたね。今着ている上着が必要なくなった頃には、きっと多くの人は社会人として新生活を送っているのでしょう。最後の学生期間である今がもうしばらく続いてほしい気持ちがある一方で、どこかこれからが楽しみな気持ちもあります。新生活は、きっと期待するほどには上手くいかず、まあまあ大変な日々を送りつつも、そこそこに幸せな日々なのではないかと、なんとなく思っています。

 

 

 私が4月からの生活に対して楽観的でいるのは、「就職をしない」という選択をしたためかもしれません。その代わりに、私はこの春からの1年間、「リゾバ」をすることに決めました。リゾバとは「リゾートバイト」の略で、ホテルや旅館、スキー場などといったリゾート地で住み込みのアルバイトをするというものです。私は1施設当たり2,3か月を目安に、全国の複数の施設で、仲居などとして接客業務をしようと考えており、最近は仕事先となる宿を探しているところです。

 求人の関係で、実際に宿探しを本格的におこなっているのは最近ですが、昨年8月の夏合宿の後に、新卒就職の辞退を決めました。それまでの約半年間は、私も多くの大学生と同様に新卒一括採用での就職活動を行っていました。ちょうど1年前、就職活動が始まったばかりの頃は、「もし就活先が決まらなかったら」という不安と「私にだって就職できないはずがない」という過信との間で、必死になって都内を走り回っていたことが思い返されます。当時の私にとって「内定」とはまるで「普通の人」であるという証のように感じられ、その証欲しさにムキになっていたのだと、今になって思います。

 

 就職活動開始時は、自分が「成長」できそうで、楽しそうで、格好いい、という浅はかな理由で、広告業界や不動産業界の営業職を志望していましたが、なかなかうまくいきませんでした。その最中の6月頃、ゼミで私が母親と依存状態にあることを指摘されたことをきっかけに、親と物理的な距離を取るために、一人暮らしができる企業を希望するようになりました。しかし、社会人1年目と一人暮らし1年目を同時にスタートさせることはあまり現実的では無かったようで、面接官の方にも「自立したいのは立派だけど、焦らず最初は実家から通ったほうがいい」と止められることがほとんどでした。またこの頃は私がチーフを務めていたプロジェクトAが企画立案と企画倒れを繰り返していた時期でもありました。人の話をそのままの形で理解することや、見通しを立てながら物事を考えることなどといった思考に関する当たり前の習慣が無いことや、いくら気合があってもそれだけではどうにもならないことなどを知りました。他にも様々な面において今の自分の力量というものがみえてきて、現状の自分は社会人として果たすべき責任を全うできる段階には到達できていないのではないか、と思うようになりました。それでも新卒一括採用での就職にこだわっていたので、飲食店でのアルバイト経験をもとに、そのまま飲食サービス関係の企業へと方向転換をしました。「飲食業はブラック」という言葉をよく耳にしていたので、楽しそうでおしゃれな「世界観」や「雰囲気」をつくりあげる空間デザイン業もおこなう「夢のある」企業に飛びつき、なんとか内々定をいただきました。しかしゼミでの勉強をしているなかで、「雰囲気」や「世界観」などといったイメージをつくりあげることに対しての興味関心も薄れ、最終的に手元に残ったのは、「私の将来、本当にこれでいいのかな」という疑問でした。

 

 ゼミ合宿や集中講義が終わってひと段落ついたとき、今までとこれからのことについて考える機会がありました。そしてその時、卒業後に自分がいちばんするべきだと判断したことは、とにかく「親元を離れて、自分の力で生きてみること」でした。そしてそれが実現できそうだと思って選んだのが、先出の「リゾバ」でした。リゾバであれば、働いている以上は住むところがあり、食事が支給されることも多く、生活に困らずに親元を離れて暮らすにはとても条件が良いと考えました。またアルバイトの経験をもとに、サービス業はある程度自分に向いている業種ではないかと考えました。これらのことから、1年間リゾバをするという選択は、自分にとっていちばんよい選択ではないかと思いました。

 とはいえ、「就職しない」という選択が、自分にとって本当に良い選択だといえるかどうかはまだまだ分かりません。それに、自分が自覚的ではなかっただけで、社会人になるのが怖くなって逃げだしたという側面もきっとあるのだと思います。それでも、自分自身で選択したことなので、その選択の妥当性はどうであれ、決めた以上はしっかりやっていこうと思います。

 

 周囲の人に「新卒就職を止めた」と報告すると、笑われたり不思議がられたりと、理解できないというような反応をされることがよくありました。その反応を見て、「就職をしない」という選択は、一般的にみると「普通ではない」のだということを肌で感じます。それこそ1年前の私は、自分が「普通」でないと評価されることに怯えながら、周囲の人と自分を比べて、不安や劣等感のなかに埋もれていました。今までずっとこだわってきたはずの「普通かどうか」という主観的な基準について、その存在を忘れてしまうほどに手放せたことは、ゼミ活動を通して変わったことのひとつです。

 周囲に私の進路を不思議がる人がいる一方で、私の話に耳を傾けてくれて、背中を押してくれる人たちもいました。 たとえば母親は、就職辞退を考えるに至った経緯を説明したところ、特別反対することもなく、意外にも「それがいいんじゃない?」とあっさり承諾してくれました。父親は最初こそ顔をしかめたものの、「でも<チャーリー>が決めたなら、別に反対はしないよ」と言ってくれました。また親しい友人たちのなかには、「きっといい経験になるね」「がんばって」と優しい言葉を掛けてくれる人がいました。

 

 ところが最近になって、母親は「頑張っても出来ないことってあるのよ」「そんなんでこの先ひとりでやっていけるとおもってるなんて、甘いんじゃない?」などの言葉をひんぱんに掛けるようになりました。失敗を前提にされていることに対して腹が立ち、感情的に言い返したくもなりましたが、せっかくの機会だと思い、粘り強く話し合おうと努めてみました。その結果、母親はただ単に「本当につらくなった時には、潰れる前に助けを呼んでほしい」と思っていただけであるということがわかりました。そういう大事なことをそのまま言葉にして伝えてくれさえすれば、誤解が生まれることも口論になることもないのに、とも思いましたが、私が自覚していたよりもずっと母親に愛されていたことに気づけた出来事でした。また、いつもふざけあう仲だった高校時代の友人たちと再会した日の別れ際に、「実は結構<チャーリー>のこと心配してるんだよ」と言われました。

 

 母親や友人たちに心配されていることを知ってから、当の本人が感じているよりも、私の姿は危なっかしく見えているようだとわかりました。このことを通して、どんな選択肢を選ぶかということももちろん重要ですが、それ以上に、選んだ選択肢を進むその人がどのようであるかということがとても重要なのではないかとおもいました。この点からみると、少なくとも今迄の私は、夢見がちで気分屋で、根性論をもとに無茶をしがちだったので、危なっかしく映っているのは当然だと思いました。

 

 

 新しいことを始めたときは、やることなすこと上手に出来ないのは自然なことです。しかし、その「出来ないこと」を「出来ること」へと変えるためには、じっさいに身体が覚えるまで繰り返し練習していくほかありません。そのときには、派手な理想を掲げることも、上手くいかない現状を嘆くことも、気合を入れようとすることも、自分の「がんばり」を周囲の人に認めてもらおうとすることも、きっと必要ありません。これからは、言い訳をしないで、持っている頭と身体を使って、目の前にあることをひとつずつこなしていきたいです。

 

 

今回の記事はここまでとします。ありがとうございました。

 

 

中身 (2017.01.21)

 

 こんにちは、<チャーリー>です。私達長谷川ゼミ8期生は、今月の1月11日に無事卒論を提出し、卒論の執筆活動は終了しました。卒論執筆が本格化した昨年の秋から提出までの数カ月間をふりかえると、駆け抜けるような速さで過ぎていったように感じます。卒論提出日を遥か先に感じていた当時を思い出すと、どうにかこうにか卒論を提出できたことにたいして感慨深い気持ちになります。しかし今の私には、それ以上に自分の卒論の内容や取り組み方への後悔や反省のほうが圧倒的に大きく感じています。 
今回のブログでは、その後悔と反省から見えた自分の物事への取り組み方に関してのお話をします。

 

 私の卒論は、「『学校剣道』において『成長』は、どのようなものであると語られているか」ということを、雑誌『月刊剣道日本』を調査資料にして探ろうとするものでした。私は、ゼミ内の卒論提出日であったクリスマスの3日前に、なんとかすべての雑誌に目をとおすことができました。しかし、その次の段階である言説を論文に組み込むという最も肝心な部分で、私は大きくつまずいてしまいました。 
“『月刊剣道日本』から「成長」をみる”という抽象的な方向性は定まっていたものの、具体的になにをどうすればそれが可能になるのか、ということが全くみえていませんでした。なぜなら、「剣道」から「成長」を見よう、という私の「切り口」があっても、雑誌に書かれていることはあくまで「剣道」のことでしかなかったからです。そのために、そもそも「成長に関する言説」というものがどれなのかということを選別することもできず、資料の前に立ち尽くすことになりました。


 このような状態であるにもかかわらず、「『剣道』を『剣道』として捉えるのでは、ただのオタクと変わらないのではないか」という決めつけがあったので、私は雑誌『月刊剣道日本』の内容からいきなり「成長」をみようとすることをやめませんでした。見えない「成長」を捕まえようとしては、これでもできないあれでもできないと試行錯誤しました。視点や方法を変えながら、手元にある資料を何度も読み直しました。そして、「これなら『成長』が見えるかもしれない」と思えた方法をみつけては、その方法で整理したり書き進めたりしてみました。しかししばらくすると、自分が何をしているのかわからなくなって、きっとこの方法ではうまくいかないのだろうと手を離し、再度資料を読み直しました。そうこうしているうちにも時間は刻一刻と過ぎていき、その焦りからいろいろな方向から記事を見ては書き進めましたが、着眼点や論点が、時代や記事ごとにバラバラになってしまいました。それではいけない、と無理矢理ひとつの方法論を捏ね上げて、それに従って強引に書き進めることもしましたが、やはり途中で行き詰まり、最後までやり通すことができませんでした。


 本論への取り組み方を二転三転し、迷っていたこの時点では、雑誌『月刊剣道日本』から「成長」に関する言説を読み解き分析することは、私には不可能でした。それなのに、「できない」という現状を認めず「もっとも良い本論への取り組み方」を探すことに腐心し、「絶対にあきらめない」と必死になりました。それは、「適切な方法」にさえ自分が辿り着ければ、あとは道が開けるのではないか、という甘い考えによるものでした。その結果、いつまでも卒論を書き進めることはできませんでした。このままではどうやっても終わらない、ということに気づいて苦しくなったころ、ゼミ内の最終提出日を迎え、とうとう脱稿できないままの提出となってしまいました。多くのゼミ生が卒論を完成させているなか、私は完成の目処すら全く立っていない状態でした。

 

 今迄の一連の態度が間違っていたと気づいたのは、最終提出で送付されたゼミ生の卒論のなかの「反省」を読んだときでした。そこには、「もっとこうすればよかった」「これが足りなかった」というような「あと一歩」及ばなかった点を挙げるようなものだけでなく、問いや調査資料、あるいはアプローチの仕方といった、卒論の中心的な「幹」の部分にたいしての反省もあったのです。これを見て、ハッとしました。私が想像していた「反省」とは前者だけで、後者のような「幹」に対する問題を「反省点」というふうには認識していませんでした。つまり、これが大きな間違いだったのです。たとえ卒論の「幹」にかんする問題に気付いたとしても、卒論本提出まで2週間を切っている時期は、今更その問題を修正するような段階ではありませんでした。残された時間を考慮して、そのなかで自分に出来ることをして、なんとしてでも卒論を書き上げるべきでした。私はただ、「できない」という現状をどうにかひっくり返そうと躍起になっているだけで、現状でも出来ることをしようとしておらず、そのために卒論がいつまでも書けなかったのだとわかりました。


 卒論の現状を考えたら、「今の自分に、『成長』をみることはできないな」と思いました。そして、「『剣道』の指導のブームなどを見たところで、一体何の意味があるのだろう」と心のどこかで思いながらも、指導者が直接語っていることや、記事が間接的に重要なものとして語っていることをそのまま「剣道」として捉え、時期ごとに整理することにしました。すると、たとえば「練習」や「強くなること」に比重が置かれ、練習の方法や内容を盛んに語る時期もあれば、部員たちの態度やふるまいなどをどう教育するかといったことを多く語る時期もある、といった明らかな違いがありました。そしてその時期ごとに登場するキーワードや指導の方法は違いがあるものの、その先にある「部員に身につけさせようとすること」にはあまり変化がないことなどがわかってきました。今迄どうやっても見えなかったいろいろな特徴や変化が、はっきり見えてきた瞬間でした。これらの発見からは「成長」への道が開けたようにも感じましたが、それは提出の前日のことで、実際には何ひとつ間に合わせることができませんでした。
 結局、言説分析は「あの記事のあの言葉が例としてわかりやすい」といくら思っても、今から分析して書き起こす時間もなく、今迄気まぐれに書き起こした言説をかき集めて、ほんの少しの解説を加えただけでした。考察もほとんどできず、その本体以前の章には私の主観を書き並べたような部分がいくつもありましたが、諦めるほかありませんでした。大慌てで印刷して「提出」を完了させたあとに、多くの誤植や抜けなどを見つけました。形式的な「卒論提出」を達成したにすぎませんでした。

 

 必死に試行錯誤することをあきらめなければ、なにかに辿り着けるような気になっていました。「ちゃんとした卒論を書くんだ」という意志を持ち続けていれば、最終的にはある程度「ちゃんとした卒論」を仕上げることができると思っていましたが、それは大きく間違っていました。「気合充分」で事に当たれば「いい結果」につながる、という考えと根本は同じようなもので、非常に自己満足的で自分勝手な考え方でした。

 必死に目標にしがみつくような私の態度は、到達までのプロセスの一切が抜け落ちていて、肝心な「中身」が空っぽでした。「中身」とは、当たり前のひとつひとつのことを積み上げていくような、着実で誰にでもできる作業です。それをどこまでも軽視して怠っておきながら、目標に到達できるはずもありませんでした。そんな「中身」のない私の取り組みは、そのまま「空っぽな卒論」という目にみえる形になって表れました。そしてこのことは、決して「あと一歩が足りなかった」というような惜しい失敗ではありませんでした。「結果が悪い」ということは、その過程が不充分あるいは不適切であったことを示していると思いました。そして「中身」というのは、決して「頑張った」「必死になった」といった感覚的で自分基準のものではなく、これまでの自分の選択や行動といった具体的なものによって形成されるのだと思いました。

 夢見がちで足元が疎かな私の態度や行動は、今回の卒論に限らず、きっと他の多くのことにも言えるのだろうと思いました。私は「自分がなにをして、なにをしなくて、その結果なにができて、何ができなかった」という冷静な振り返りをすることが苦手で、「必死になった」「よく考えた」「何回かやり直した」などという感覚的で抽象的な回答をしがちです。さらに言うと、結果にかかわらずたいていのことは、「自分なりには頑張った」とまずまずの好評価をつけていました。
 私はよく「<チャーリー>が頑張っているのは、よくわかるよ」と、周囲の人から言われてきました。この言葉は、私の熱心そうな姿勢を評価している場合もあれば、失敗や空回りをしているとき、どうしようもない慰めの言葉として「頑張り方」の不適切さを間接的に指摘していることもありました。しかし私は、「頑張っている」ことを盲目的に「良いもの」だと信じていたので、自分の取り組み姿勢自体を「頑張っている」と表現されたことにたいしてうれしく思っていました。そして自分の取り組み方が「正しい」のであれば、「悪い結果」を「良い結果」へと変えるまでにはきっと「あと一歩の差」しかないのだろう、とどこか惜しい気持ちでいました。前者はともかくとして、少なくとも後者にかんしては、「頑張り」が「結果」となんら結びついていない状態に対して向けられたものであることから、その「頑張り」を評価しているはずがありませんでした。そんなことにも気づかず、私は自分の姿勢だけでなくおこないまでも無条件に良いものだとみなし、「いつかきっとうまくいく」と能天気に夢見ていました。自分が「結果を出すにふさわしい中身を実際に行っていなかった」ということは想像もしませんでした。

 

 今になってわかることは、「空回りばかりする」というのは、不器用だとかそういう問題なのではなくて、肝心な「中身」がないからだということです。今迄の私がしてきた失敗や空回りの大半は、目の前にあるものや自分がすべきことにたいして、等身大で着実な作業をしなかったことに起因するのだと思いました。そしてその努力をしない代わりに私がしていたことは、その積み重ねのはるか上空にしかない「結果」や「成果」を得ようと手を伸ばしてバタバタと足掻くことでした。


 と、いくら頭で思ったところで、行動として手を動かさないことには今迄と何も変わらないので、物事の大小や自分の興味関心の強弱にかかわらず「手を動かして進める」ことに尽きると思いました。


最後までお読みいただきありがとうございました。 
 

 

 「成長する」ということ(2016.11.03)

 

 こんにちは、‹チャーリー›です。

もう11月ですね。本日まで大学では白金祭が開催されていました。学生たちの活躍の場がたくさん詰まった学祭シーズンのこの時期は、学校中がいきいきとしています。とはいえわたしは学祭とは縁遠い大学生活だったので、学祭準備に勤しむ人たちの様子を「頑張っていることはいいことだなあ」とぼんやりと眺めていました。

 

 わたしは、「ひとつの目標に向かって、みんなで頑張ること」をとてもいいことだと思っています。目標にたどりつくまでの過程にある、お互いを励ましあったり素直な気持ちを伝えあったりする経験は、人を大きく成長させることができると思うからです。

 この考えはもともと、自分の経験に由来するものでした。しかし、最近になって、「今までの自分は、本当に仲間と向き合えていたのだろうか」という疑問が浮かびました。それは、前回の‹スウィート・チリ›さんの記事にあった「思っていることを素直に言う」話し合いや、その前の‹さとうきび›さんの記事にあった長谷川先生からの“仲良しごっこ”のご指摘などがあったからです。今回は、それらを経験した今、捉えなおして見えてきた自分のことをお話しします。

 


 わたしがいちばん「みんなでがんばった」と思える経験は、高校生のときの剣道部での活動でした。わたしたちはとても仲の良い代だといわれてきました。厳しい練習はみんなで励まし合って乗り越え、試合のたびに選手の背中を押し合ってきました。部員の弱音にもちゃんと耳を傾けて、前向きな言葉を掛け合いました。おかげで腐ることなく3年間を剣道に捧げ、わたしたちはそこそこに強くなることができました。そして引退の頃には、強くなったこと以上に、そのチームワークの良さをなによりも高く評価されました。そんなチームに自分が居られたことを、わたしはとてもうれしく、誇らしく思っています。


 高校の同期は、やさしい言葉をかけるのがとても上手な人たちでした。ここぞというときに、いつもいちばん欲しい言葉をくれました。そのあたたかい言葉によって、わたしは前向きさを持ちつづけて、厳しい練習のなかにも楽しさを感じることができました。

 そんな経験を通してわたしは、「“前向きな気持ちで一生懸命になること”こそが“最良の努力のしかた”で、その先には輝かしい“成長”がある」と思うようになりました。そして「お互いが前向きな気持ちでいられるために、相手がほしい言葉などを予想して、それに即した行動をすること」が「仲間の役目」であると考えるようになりました。この考え方が出来あがったとき、「これこそ、人間関係のなかでなによりも大事なことに違いない!」と思いました。さらにこの考え方は自分の経験に由来しているがために、傲慢にもわたしは「自分が本質を体得することができた」と錯覚しました。

 

 

 そんな傲慢な勘違いとともに、わたしは「強くなりたい」「成長したい」と意気込んで、大学でも体育会剣道部を選びました。「大学の部活動でも、高校のときのようないい仲間関係を築ける」と自分をひどく過信し、「うまくいかないことがあっても、高校のときのようにすれば絶対にうまくいく」と信じて疑いませんでした。そうして自分の考え方を変えないでいたために、人間関係は八方塞がりで技術も伸び悩み、結局2年と持たずに辞めてしまいました。

 当時はわかっていませんでしたが、今ではうまくいかなかった原因を2つ挙げることができます。 ひとつは「自分の考え方」に周りを当てはめながら「聞きたい言葉」しか聞こうとしなかったこと、そしてもうひとつは、大事なことから逃げながらもそれを誤魔化し続けたことです。


 わたしのなかには、あらゆることに答えがありました。「部活とはこういうもの」「いい後輩とはこういうもの」「こう聞かれたら、こう答える」などといった自分のなかでつくられた模範解答です。わたしは、それらをもとにして「最高のチーム」づくりに貢献しようとしました。とはいえひとりでチームづくりはできないので、特に同期にたいして、わたしと同じような考え方やそれに即した行動をすべきだと思っていました。そして、わたしの期待する振る舞いをしない同期に対しては、日々小さな不満を募らせていました。わたしが信じている考え方は絶対的なものだと信じていたので、どうしてそんなに勝手な行動をとるのだろうかと、理解できない気持ちでした。そうして不信感を募らせながらも、自分の意見を口に出すことは極力避けました。意見を言うことで揉め事が起きることが予想できるので、その火種をつけるような行動は身勝手だと思ったからです。しかしそれも今思えばただの言い訳で、「自分の考えが正しいから」と同期の意見を聞く前から切り捨てて、さらには「自分の考えが正しくないこと」を知る可能性をどこまでも拒絶していただけでした。


 うまくいかないなあと思いながらも、「わたしはこんなにがんばっているのに、どうして高校のときのようにはうまくはいかないのだろう」と、どこか周りのせいにして、自分を顧みることはしませんでした。近況を高校のときの仲間に聞いてもらいながら、自分の考えを肯定してもらいました。また、状況をよく知らない学科の友人にも、都合よく同情してもらうこともしました。そして、「空回りしてばかりだけど、お前は一生懸命に頑張っているよ」と、やさしい言葉をかけてくれる先輩方とだけ関わろうとしました。そんな先輩方の役に立とうと、「チームに貢献するいい後輩」としてふるまうことにどんどん尽力していきました。そうして、見当違いなことに力を注ぐことで、聞きたくない言葉を聞かずに済むようにしていました。


 そんなことばかりしていて、苦しくなったのは自分でした。そして大学2年の冬、なんだかんだと理由をつけて部活を辞めてしまいました。


 そんなわたしの身勝手さゆえの退部にたいして、先輩方は「まわりと合わなくてかわいそうだった」「今までよく頑張った」と言ってくれました。さらに同期は、わたしを見かけると今でも親切に話しかけてくれます。そんな部員の“大人なやさしさ”には全く気づかないわたしは、「やめたら仲良くなった」とのんきに喜ぶ始末でした。

 

 

 自分の幼さに気づけていなかったのは、当人のわたしだけでした。在籍中も退部後も、なんとなく自分に問題があると思いながらも、「出来る限りのことはやったし、その結果うまくいかなかったものは仕方がない」と片づけて、それ以上には考えることはしませんでした。自分のなにがどう悪かったか、なにを変えなくちゃいけないのか、という根本的なことは一度も考えず、問題点を探そうともしませんでした。

 ところが最近になって、今までの部員の接し方が“大人なやさしさ”によるものだということを知りました。これを受けてはじめて、当時の自分以外の視点から今までの身勝手な自分の行動を振り返りました。自分が見えていたものとは全然違うものが見えてきて、はっとしました。そして、とても申し訳なくて、情けない気持ちになりました。

 

 

 「仲間を大事にしたい」と思いながら実際にわたしが取っていた行動は、自分以外の考えを拒絶して、都合のいい言葉だけを求める態度なだけでした。「一生懸命に頑張っている」つもりでいたその姿勢は、本質から目を反らして逃げながら、それを狡くも誤魔化しているだけでした。

 

 

 今までわたしは、「自分自身を変えてゆく必要がある」ということに、まったく気づけていませんでした。

だから、いざ自分が変わらなきゃいけない局面になると、まわりに否定されているように感じて、逃げ出してきました。

 本当は、この「変わること」こそが「成長すること」だったのだと、ゼミを通してようやくわかったのでした。

 

 最近の自分は、「変わること」の必要性をやっと理解できたものの、変わるための実際的な努力をなにもしていない、ということに気づいたのはつい先週の話です。「変わらなきゃ」と頭で思うようになったものの、根本的には逃げていることには変わりありませんでした。
 

 例えば、わたしは、物事の大枠や全体像を把握することが得意ではありません。しかしそれを自覚しておきながらも、改善するための努力や工夫はしていませんでした。それは「苦手」なことに託けて、全体像を見ることから「逃げ」ているだけでした。全体像が見えると、今の自分の段階や、自分が今後すべきことなどが見えてきます。そうすると、今自分が熱を注ごうとしていることが的外れであることに気づくかもしれません。そうしたら、「本筋と見誤って他の何かに取り組んでしまった」という言い訳はできません。自分がやりたいこと以外のことと向き合わざるを得なくなる状況を、出来るなら避けて通ろうとしている狡さが見えてきました。

 そんなときに頭のなかで反芻されたのは、先日の話し合いのときに‹スウィート・チリ›さんが発した「自信がどうとかじゃなくて、やるの!!」という言葉と、そのときのゼミ生たちの真剣な表情です。

 

 

 今まで「努力を必要とする局面で逃げ出しつづけてきたこと」と、「今も本質的なところは変わらず、逃げようとしていること」を知った今、言葉にしたいことは2つあります。

 

 まず、今までのわたしはゼミ生として適切な姿勢ではなかったということです。すみませんでした。
 そして、これからはどうするかということです。今のわたしが最も大事にしたいものは卒論で、最も大切したい相手はゼミ生のみんなです。今までのわたしが困っているたびに、やさしく助けてくれたゼミ生のことを、ちゃんと大切にしたいと思いました。そのためにわたしがすべきことは、自分がしっかりとした卒論を書くことと、仲間の卒論がよくなるための意見を少しでも多く出すことの2点に尽きます。卒論の仮提出日まではもう2か月もないけれど、ゼミ生としての役目を果たそうと思いました。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

 以上、‹チャーリー›でした。

 

 

 

 

  「気合い」の魔法にかけられて (2016.10.10)

 

 こんにちは。半袖で昼寝をしたせいで、すこし風邪気味な‹チャーリー›です。

今年の秋学期の長谷川ゼミは、9月の最終週、ゼミ生の発表から始まりました。その翌週の10月の第1週目には、約3か月ぶりに通常の形式のゼミが行われました。わたしは、これをきっかけにゼミ中心の生活の感覚を思い出してきたと同時に、「後悔しない半年間にしたい」と強く思いました。そして、「今までだったら『心機一転、頑張るぞ!』と気合いをいれていた場面だな」とも思いました。

 

 

 「気合い」に関するある教訓として、わたしには今まで大切にしてきた教えがあります。それは、「同じことをやるのでも、取り組む姿勢によって、その中身が大きく異なってくる」という教えです。「やればいいんでしょ!」という気持ちでいい加減に片付けたものと、よく考えながら丁寧に取り組んだものでは、最終的な厚みや深さが全然違ってくる、という意味の言葉です。

 

 わたしは長い間、この「取り組む姿勢によってその中身が大きく異なる」という言葉に出てくる“取り組む姿勢”のことを、「一生懸命な気持ちを維持すること」だと思っていました。そしてそれが達成できるかどうかは、自分の精神的な部分に懸かっているのだとも思っていました。だから、最高のパフォーマンスを発揮するには、気持ちを高めるための「気合いを入れる」というステップが非常に大切だと考えていました。

 

 気合いが入っているときは、いつもよりも集中して物事に取り組めるように思えます。作業がうまく進んでゆくと、だんだん作業そのものが楽しくなってきて、ますます頑張ろうという気持ちが湧いてきます。そうして仕事がひとつ片付いたときには、いつも以上の達成感を味わうこともできます。気合いが入っているときは、まるで魔法にかかっているような感覚で、どこまでも頑張れそうな気がします。

 

 そんなわたしにとって、やってみる前から「できない」と結論付けることは、気合いを入れれば出来るはずのことから逃げているように見えただけでなく、成長のチャンスを自ら手放していることのようにも見えました。だから、「出来ないかもしれない」という懸念は頼みごとを断る理由とはいえないと考え、なにか人から頼まれたときには「気合い入れて頑張るから大丈夫」と後先考えずに引き受けていました。

 

 また、「頑張っても気合いが入らないようなときには、さっさと頑張ることを諦めて、何もしないほうが良い」とも思っていました。それは、肝心な気合いがない状態でだらだらと頑張ったところで大した成果は上げられない、と思い込んでいたからです。「今よりも気合いが入っているときにやったほうが、もっといいものができるから」と、怠け心を正当化して、結果的には追いつめられるまで何もしません。ギリギリまで先延ばしにして、追い込まれたところで初めて作業に取り掛かるようなことばかりです。

 

 

 「気合いを入れさえすれば、できないことはない」と自分を過信しているので、いつまで経っても自分を客観視することができません。なんでもかんでも気合いで乗り切ろうとするため、身の丈に合わないことにも平気で手を出してしまいます。その結果、いつもわたしは精神的にいっぱいいっぱいで、心の余裕なんてどこにもありません。そんなときは往々にして視野も狭くなりがちで、思い込みが先行してばかりです。そんな状態が習慣化しているために、もはや失敗や空回りはいつものことでした。

 

 わたしがよくする失敗の一例として、“寝坊”が挙げられます。遅刻が許されない日に限って寝坊をして、そのたびに「大事な日だと分かっていたのに、なんてことをしてしまったんだ」と心底後悔し、もう二度と繰り返すまいと心に誓います。ところが、失敗の原因を精神面の弱さに由来するものだと考えていたために、「前日には、寝坊しないように気を引き締めてから眠る」「駅までの道のりを、諦めずに一生懸命に走る」など、気持ちにかかわる改善策しか浮かびませんでした。「大事な日の前には、1時までに寝ておこう」「家を出る時間をあと3分早くしよう」といった具体策を考えるには至らず、気合いを入れなおして神経を張り詰めながら過ごすものの、しばらくすると再び似たような失敗を繰り返します。そして「頑張っていたはずなのに、まだ意識が足りないのか…」と落ち込んで、自分の意志の弱さを嘆いてばかりでした。

 

 

 こうした自分の弱点が明るみになったのは、今年の春学期の後半のことでした。わたしは当初、前期のひとつのプロジェクトのチーフを担当していました。気合い充分で取り組んだものの、プロジェクトの舵取りをするチーフとしての役目は果たせませんでした。それどころか、他のゼミ生は掴めている話にわたしだけ着いていけず、その差を埋めるためにはゼミ生からのたくさんのサポートを必要としました。また卒論の勉強で文献を読んでいても、その内容が「自分の経験と照らし合わせて、共感や納得ができるか否か」という判断基準しか持ち合わせていないがために、自分の関心事を学問的な観点から捉えて話すことはできませんでした。おかしいなあ、どうすればいいんだろう、と1日中悩んだところで、当然ながら「出来ない」という現状が改善されることはありませんでした。

 

 「気合いはあるのに出来ない」という情けない経験は、「気合いといった精神的なものでは、技量をカバーすることはできない」ということを教えてくれました。気合いという名の皮が剝がれ、見えてきた等身大の自分は予想以上にかっこ悪くてがっかりしましたが、「せめて、もう少しマシな人間でいたいな」とも思いました。その後の夏休み中頃まで無気力さを引きずってしまいましたが、「さすがにやらないとなあ」と、かろうじて残っていた最低レベルの動機でなんとか課題をこなし続けました。気合いのない状態で取り組む課題なんて、どんなにひどい仕上がりになってしまうのかと不安な気持ちもありましたが、いざ仕上がった課題は今までと大差なく、どれもごく普通の出来栄えでした。

 

 

 「気合いを入れようとあれこれ腐心するよりも、ただ目の前にある課題に取り掛かったほうが、圧倒的に早い」ということに、ようやく気づきました。

 

 

 さらにこのことを裏打ちするかのように、先日のゼミでは長谷川先生が「“気分”に根拠を求めるとあんまり伸びない。天気と一緒で、気分はコントロールできるものじゃないから。」とおっしゃっていました。

 

 これを聞いて、どうしてわたしは今までこんなに不安定なものを盲目的に頼っていたのだろう、と疑問に感じました。そう思って振り返ってみると、結局は気合い充分で絶好調な錯覚のなかで、あらゆることを魔法的に解決しようとしていただけでした。これは、着実な努力を避け、手っ取り早く達成感を得ようとするただの怠慢であると同時に、自分の現状と向き合わず、いつまでも本質を見ようとしない態度でもありました。

 

 

 この現状を理解して以来、「同じことをやるのでも、取り組む姿勢によって、その中身は大きく異なってくる」という言葉は、非常に耳の痛い言葉としてわたしのもとへと跳ね返ってきました。気合いに依存せず、課題の負荷に見合うだけの労力や時間を充分に割かないことには、それ以上の結果はもちろんのこと、最低限のラインに到達することさえおそらく難しいのでしょう。

 

 

 気合いや勢いに任せないで、当たり前のことを当たり前にこなせるような、地に足のついた行動をとろうと思いました。卒論は、気合いだけでは書けそうにないので。

 

 

 以上、本日の担当は‹チャーリー›でした。
 

いまを生きてゆく(2016.08.22)


 

こんにちは、<チャーリー>です。

 

 

今回のブログでは何についてお話しようかとずっと考えていたのですが、これといった面白いエピソードもなければ、最近なにか夢中になっているようなことも特にありません。できることならなんにもしたくなくて、ただ時間が流れてゆくのをぼーっと感じていたいと思っています。

 

 

こんなことを思うのはおそらく初めてのことです。そう思うようになったのは、小さな心境変化があったからです。

 

わたしは今まで、「一生懸命に何かに打ち込んで、努力すること」や、そうすることで「“立派な人”に近づくこと」が何よりも大事だと信じていました。それはまるで、神様から与えられた「人生のミッション」のような意味合いでした。そのミッションに向き合うストイックさを体得して初めて、日々を楽しく過ごす資格があるのだと、なんとなくですが非常に強く、思いこんでいました。そのせいで、何も考えずにただ楽しそうにはしゃいでいる人を見るたびに「やるべきことから逃げて、一体何をしているんだろう」「本当にそれでいいの?」と、呆れ半分で、どこか冷めた目で見ていました。それと同時に、最低限のやるべきことさえさらりとこなせず、失敗を繰り返してばかりの自分が、すごく嫌いでもありました。このミッションに対する意識は歳を重ねるほどに強くなって、いつのまにか、自分のことや他人のことを「あるべき姿」にくくりつけようとしながら生きていました。

 

 

大学に入ってから、「今の自分とは全然違う自分になりたい」と思うことが増えました。それは、わたしが思う「あるべき姿」に自分がなかなか近づけないからという理由がひとつと、たくさんの人と出会うなかで、いろいろな生き方や考え方があることを知ったからという理由のふたつがあります。そうしてより他の人と自分を比べて、どんどん自信が持てなくなりました。ちっぽけな自分を直視したくないわたしは、現実とはかけ離れた華々しい理想を描いては未来に思いを馳せてみたり、過去の思い出をひとつひとつ振り返ってはその余韻に浸ってみたりしてばかりいました。

 

 

そうやって現実から目を背けていたことに気づいたのは、つい最近のことです。それは、8月3日の集中講義の後で、長谷川先生のもとに集まった日でした。この日は、夏休みに長谷川先生にお会いできる最後の日で、ゼミ生が合宿の反省や卒論についての報告や相談をする機会でした。そのとき先生がお話してくださったことのなかに、「未練」とそれに対する少し厳しいご指導がありました。このときの先生のお話が、わたしにはとても強く心に引っかかって、しばらくは頭から離れませんでした。これについて考えているなかで、自分が過去のいろんなことに未練だらけだということや、過去を引きずって生きているということを自覚しました。

 

 

ちょうどそのころに、わたしが今住んでいる実家の自室を、他人に明け渡すくらいにきれいにしなくてはいけなくなりました。これを受けて、10年以上も家族以外が立ち入ったことの無いわたしの部屋を、改めて見渡してみました。人の目を気にせず好きなものを好きなように飾って散らかしつづけたこの部屋は、排他的でどうしようもなくごちゃごちゃしていて、ジャングルのような状態になっていました。あちこちで崩れかかっているノートやメモ書きの山は、「きっと今後の勉強で必要になるから」という口実で保管していたものでしたが、実際に読んでみたら内容なんてよく分からず、「あの時のわたしはこんなに頑張っていたんだなあ」と口元が緩んだだけでした。部屋のあちこちには、iTunesに取り込み済みの傷だらけのCDや、幼稚園の時に駄々をこねて無理矢理買ってもらったぬいぐるみ達や、昔気に入っていて着古した洋服や、中学校ときの学級通信など、なつかしい“宝物”がたくさんありました。でもその多くは、掃除をするときに初めてその存在に気づくような程度で、その後の置き場に悩んでしまうような、“困った宝物”でした。わたしの部屋を埋めつくしていたのは、「あのときこうだった」という過去の日常を呼び起こす、タイムカプセルのようなあれこれでした。特別にたいそうな22年間を歩んできたわけでもなければ、ものすごくかっこいい過去の栄光があるわけでもないのに、わたしは、過去のなんでもない日常の思い出のなかで、いつまでも揺られて過ごしていました。

 

 

そんな今までの生き方に気がついて、とてもがっかりしました。世界をきらきらと鮮やかに彩る魔法が、ふっと解けたみたいでした。どこか夢見がちだった自分に気づけてよかったと思うと同時に、いろんなものが急にどうでもいいもののようにも見えてきました。それからというものの頑張る気力は湧かなくなり、ほとんどなにもしないで約1週間を過ごしました。

 

 

ただ、生ぬるい夏の空気を吸い込んだり、蝉の音を聞いていたりしていました。自分だけ、時間が止まったみたいでした。

 

 

ベランダから狭い空を眺めて思ったことは、思い出とか憧れとかに強く固執する必要はないということです。「そんなことよりも、今がちゃんとしていることが大事なんだな」と、ぼんやりと思いました。

 

今現在、全然ちゃんとしていないわたしが言うのもおかしな話なので、やるべきことは最低限、ちゃんとやろうと思いました。そして、ちゃんとするためには、いま頑張るほかにないんだということも、なんとなくわかりました。

 

 

わたしの話はここまでです。ありがとうございました。

はじめまして

はじめまして、‹SHIN›といいます。

 

このたびは、

①頭のなかを整理するため

②ひとに伝わる言葉を紡げるようにするため

③じぶんの幼さに気づくため

という3つの目的のもと、個人のブログを開設いたしました。

 

学生時代に所属していたゼミでの活動のひとつに、リレーブログがありました。

そのプロセスとは、日々のなかで感じたことや考えたことをトピックに、「原案」としてひとつの記事を提出します。「原案」は他のゼミ生によって添削され、赤入りの「修正版」が返ってきます。その「修正版」をもとに「原案」を徹底的に練りなおし、「原案」と顔が変わるくらいの変更を加えた「最終稿」を書きあげます。そして「最終稿」は、ゼミ生からの最終確認を受けた後に、ゼミのブログのもとでオフィシャルに発信する、というものでした。

 

これは、視野の狭い私にとって、物事から距離を取って捉えなおすための練習場として非常に重要な機会であると同時に、文章を書いたり練ったりすることの楽しさを知る経験にもなりました。

 

ゼミを卒業した今、誰かに下書きの添削を受けることまでは出来ません。それでも、日々のなかで感じたことやふんわりと考えたことを、ひとつの文章として練りあげていくという活動は、自分にとって必要なことだと感じました。

 

学生時代に書いていた記事をアーカイブしつつ、この1年のなかで感じたことや気づいたことを少しでも形にしていくことで、自分の現状の大きさを捉えていきたいとおもいます。

 ゼミ生時代の記事は、当時のハンドルネームの<チャーリー>をそのまま使用し、誤植等も当時のままにしています。

今となっては加筆修正をしたい部分もおおくありますが、当時の力量を捉えるという観点からそのままにしました。

 個人ブログ開設後に書いた記事では、<SHIN>というハンドルネームを使用します。これは、『千と千尋の神隠し』で主人公の<千尋>が<千(セン)>という名前をもらったシーンを真似て、本名にふくまれる漢字のひとつを音読みにして付けました。

 

 

趣味とボケ防止とフィールドワーク報告の3つの要素から成り立つ(予定)のこのブログですが、お付き合いいただけたらさいわいです。

 

SHIN